共産主義者同盟(統一委員会)


1611号(2022年4月5日)






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 女性救済から女性解放へ
 共に社会変革を目指す仲間として
 
                       
                                                       大地あかり




 コロナ禍で女性の貧困や自殺が問題になっている。実際に女性の自殺者は増え、生活困窮で路上生活を強いられた女性が殺されている。これはあたかもコロナのせいでおきているかのように伝えられがちだが、そうではない。確かにコロナも引き金になってはいるが、女性の生き難さや自立の困難さは、日常的生活基盤の脆弱さによるもの、歴史的にも社会の一員として正当に認められてこなかったことの結果だ。社会の下支えとしてしか位置づけられない存在として他者に依拠して綱渡りのような生活を強いられる中、その綱が少しでも揺れればあっという間に谷底に転落してしまう存在としてある。

●1章 日本における女性差別

 日本はジェンダーギャップ指数が世界で一二〇位という恥ずかしい位置にいる。この女性の地位の低さは、経済力が高ければ高いほど、その中身がいかに貧しく欺瞞的であるかを語っている。高度経済成長を支えたのは性別役割分業だ。ジェンダー意識が当たり前のように蔓延し、男は外で働き女は家庭を守る「幸せな家庭」をつくり維持することが人間の幸せなのだという神話が作り出された。それを信じ懸命にひた走ってきた社会は、生産性第一の効率主義、能力主義を生み、生産性のない者を差別し排除することでなりたってきた。女性はそうした社会の裏の担い手として置かれてきた。女性自身がどう生きたいか、何を考えているかは二の次で、資本主義社会の役に立つ女かどうか、または資本主義に貢献する男に従う女かどうかが問われ、役に立たない女は虐待されるか切り捨てられるかしかない存在としてある。
 とりわけ日本社会の家族主義は、もはや家族幻想をもてない今の社会にあっても、それに変わるものがない限り女性はそこにしがみつくしかない。そうやって女性の生き難さは再生産される。支配され従属することでしか生きられないと思い込まされた女性たちは、自分の意志や意欲や希望を持つことの虚しさばかりを叩き込まれていく。諦めと絶望を抱え解決不能と思い、その重さに耐えかねてそんな人生を終わりにしたいと思ってしまう。自殺への道はさほど遠くないところにある。
 DV(ドメスティックバイオレンス)はその典型的な例にすぎない。強者が弱者を支配することを手放せず、あくまでも支配を通そうとするときの最後の手段が暴力だ。男女共同参画基本法ができ、男女は平等だと叫んでも、社会構造自体が変わらない限り、その意識性を保つことのできる経済力や環境のある女性は、報われるかどうかは別としてそこに向けて努力できるが、それらが得られない女性には無縁のものとなり、その格差は大きくなるばかりだ。

●2章 日本の法体系と救済の現状

 DV防止法はあるが、それは被害者を保護するものであり、加害者を罰するものではない。だから被害者を保護し逃がすことはしても、そこから生活再建をしていくのは自己責任となる。加害者の追及に怯え続け身を隠し続けなければならない不安な日々、知らない土地で新たな暮らしを作っていくことは並大抵ではない。DVからの避難はそれで終わりではなく、そこから女性にとっての新たな人生が始まらねばならない。しかし現在のDV防止法ではそこまでは保証しない。
 だからせっかくDVから脱出しても、その後の生活の苦しさで支配する夫の暴力の下に戻ってしまう女性もいる。それは経済的な問題だけでなく精神的な支えや社会とのつながりがない限り、暴力によって自分を否定され続け社会経験がなく自己肯定感も失い自信を失ってしまった女性が、社会の中で生きる術をもてない結果にすぎない。孤立し絶望し虐待を受け続ける人生しか思い浮かばない中で、暴力を我慢して生き延びるか、死んで終わりにするかの選択しかないと思う女性は救われることはない。
 そんな状況の中で女性たちは、社会が救わない女性たちを自ら救うべく、手弁当で献身的犠牲的に救済運動をしてきた。しかしそれは救済運動の域を出ることができていない。
 一九五七年に売春防止法ができて、売買春を強いられる女性たちへの公的な救済が始まった。そして現在、DVや虐待の被害当事者の女性たちは、その法律だけを根拠に救済されるだけで、女性の人権の視点から支援を受けているのではない。保護・更正の対象としてしか位置づけられていない。
 男女平等社会を実現するには女性の人権を柱にした法律が必要だ。今年ようやく「困難女性支援法案」が議員立法で提案されようとしている。売春防止法実施以来六五年もたってようやくだ。しかし、この法律ができたとしても社会構造が変わらない限り、女性が社会的政治的主体として生きる道は困難であることに変わりない。
 逆に、より資本主義に取り込まれ、そのおこぼれを貰って生きる道ができるに過ぎない。生活保護を受給して最低限の生活ができたとしても、女性自身が自らを社会の主人公であり、自分の人生を自分で決め生きることが認められない限り、自分の生と性を自己決定できる社会にならない限り、女性として解放されることはない。

●3章 解放主体としての女性の闘い

 経済的貧困は問題だ。しかし経済的貧困だけが問題なのではない。問題は金がない者は劣っていると思わされることだ。人間として価値がないと思わされてしまうことだ。差別や抑圧と闘う力を奪われてしまうことだ。
 女性たちは自らの貧しさからの脱出を、自己責任や家族の問題としてではなく、社会的差別抑圧からの解放と社会的政治的主体として自らを解放する闘いとして位置づけることが重要なのだ。自らに誇りをもち堂々と生きていくことを宣言し、理不尽と闘う主体として生きなおす力を取り戻すことこそ問われているのだ。そこに向かわない女性支援運動は、女性を新たな抑圧の下へ導くことになることを歴史は示している。資本主義、帝国主義に貢献するのか、それともそれと闘うのかが問題なのだ。
 私たちは目の前の抑圧者や差別者に怒りと糾弾を向けるにとどまらず、人殺しを正当化する最大の暴力である戦争をこそ憎み、抗議し、それを許す社会を変えていく主体である女性として、誇りを持って生きる仲間として、女性同士が共感し連帯しなければならない。それをはらまない女性支援運動は真の意味での女性の救済にはならない。女性による女性のための女性解放運動の前進に向けて、その連帯運動の一環としての女性支援でありたい。
 帝国主義国家を支える国策としての女性支援運動ではなく、共に社会変革を目指す仲間として自らが求め目指す社会を創りだす連帯と団結を創造する闘いとしての女性支援運動を目指したい。



   

 


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